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部屋とYシャツとわらG

部屋とYシャツとわらG

高校時代のこと

2007/11/05
シモショー 「ひとり言・・?(65534)」 [ 最近のことの日記 ]
 ななななんと、下関商業が高校野球中国大会で優勝した!

 春の甲子園出場はほぼまちがいない。

 秋の県大会では準優勝で(優勝は華陵)、中国大会に進出し、そこで優勝。華陵はベスト4。今後の神宮大会(各地域の1位のみ参加)結果いかんでは、山口県から2校出場か?

 ちなみにそんなに喜んでいるが、私は下商のOBではない(笑)。

 すごく縁があるというか、因縁が深い…というだけであるが…。とりあえず、今日の所はおめでとうございます。ブロック塀一枚隔ててお隣の高校出身者として祝福します。

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2007/11/06
シモショーとの因縁 1 「ひとり言・・?(65534)」 [ 1年以上前をふりかえっての日記 ]
 最近のS(自閉症の小学3年生)は、イタズラはするけど特に大きな出来事はないので、ブログに記録するほどのことがあまりない。(それはそれでいいのだが…)

 なので、しばらくは、同じSでも「ユニフォームの胸に大きなSひとつ」で有名?な下関商業野球部との因縁を3回にわたり書くことにした。が、そもそも誰のために書いているのかわからないし、本人にとっては重要でも、他の人にはなんてことないし、まったくの自慢話&個人の思い出の記録のためなので、あまり気にしないでください。

 ちなみに私の母はここの出身だし、高校時代の外バン仲間は3人(ボーカル・ベース・ドラム)もこの学校出身である。さらに、父はここの生徒と大げんかを何度もしすぎて私と同じ高校を中退している(笑)。

 それはさておき、私の因縁は、野球部つながり。時は、昭和57年の秋から58年の夏にかけての話である。

 秋の大会のベスト8をかけた試合で、初めて下関商と対戦した。試合は順当に1対5くらいのスコアで負けていた(笑)。我々から見ると順当なのだが、向こうにしてみればN高なんぞをコールドでしとめられないのはさぞ不本意に違いない。

 この試合の数日前、スタンドから次に当たる対戦校を偵察していて、下関商の強さに唖然として暗くなっていた私たちに、副主将のP君(仮名だがほとんど正確な名前)は、「みんな、そんな『やりなげ』になるなよ!」と励ましてくれた。本人の思いとは別に、「それを言うなら『投げやり』だよ!」という笑いで不安は一蹴され、試合を迎えたのであった。

 で、ずるずると長引いての9回に、私は代打で打席に立った。

 別に切り札でも温存されていたわけでもない(笑)のだが、その前の試合までエラーもあればスクイズ失敗もあり干されていた(笑)のが、最後に出させてもらった…くらいの打席である。

 しかし、こちらは気合い充分。投手は当時地区では有名なM浦投手。(のち社会人野球でまあまあ活躍?) ここで打っておけばのちのち自慢できることまちがいなし。ちなみに私は当時カーブがまったく打てず(笑)、遅いストレートもあまり得意ではなく、速いストレートにがつんと合わせることだけが得意のよくわからないタイプの打者であった。

 そんなことを知らないM浦君は、ちっこい私を相手にびゅんびゅんストレート(速い)で押してくる。ファールやボールが続いた後の1球はついにカーブ。万事休すか…と思いきや判定はボール。あまりの見送り方に「カーブ連投か?」と思ったが、どうせわかっても打てない(笑)ので、ストレートに山を張って次の球を強振!

 あまりにもドンピシャリのタイミングで、コースまで私の大好きな真ん中ややインコース寄り、高さはベルト…という球が来ていて、打球はライナーで飛んで、右中間を転々とした(私は左打者)!

 絶対2塁打か3塁打だと思ったのだが、さすがは下商のセンター、足が速い。なぜか追いついていて、シングルヒットとなり、塁上で首をひねった。

 その「生涯最高のヒット(笑)」をある人が見ていた。それは、下関商といえばこの人…という春の甲子園で優勝、夏準優勝、国体優勝の投手で、西鉄ライオンズで活躍…その後、黒い霧事件で無実ながら球界追放の憂き目にあった池永投手!……を育てたほうの(笑) U田(元)コーチであった。

 彼はその日、家に帰って息子に語った。ちなみに息子は私と同じN高の同級生で、彼はバスケットボール部である。背が伸びるからとバスケを始めながらも私と身長で争うライバルだった(笑)が、かなりの選手として活躍していた。朝から下商の生徒ともめて殴り倒してくるような困った男(笑)だが、今はれっきとした教師である…のでこの話は秘密だ。

 で、その息子が聞いた話は、「N高は今年つようなるぞ。左ピッチャーがええ。それに3人ええバッターがおる。O水(1番)とK作(3番)とわらG(代打)じゃ。」と語ったそうだ。

 日頃の補欠ぶり?をよく知るU(息子)が父に、「えっ、わらGも?」といぶかしんで聞き直すと、「なぜ、あいつは補欠なんか? 悪さでもしたんか? 俺がコーチなら下商でレギュラーにするぞ。」というすごい発言をしたらしい。

 ただ、この話は数日後には「いい選手」の数が増えていたり、U息子本人に20年前くらいにした時にはほぼ忘れていた(笑)し、信憑性を疑っていたのだが、何かの時にわかったのだが、うちの父がこの時、一緒に試合を見ていたらしい。(無料のがけ上席で。息子の試合くらい金払って中に入れよ。)その時、野球関係者として一緒に見てうんちくをたれ合っていたうちの父が、「あの3人」というのでU田父からその名前を直接聞いていたことが判明したのだ。

 ちなみその時にうちの父は、さんざんU氏に言わせてほめさせた後で、「おう、あのちっこい左はうちの息子じゃ」と言って、いばれたそうだ。今思えば高校時代唯一の貴重な親孝行だったかも…。

 あの池永投手を育てたUコーチに絶賛されたそのわらG選手のその後だが、なんと、その1本は、『公式戦唯一のヒット』となるのであった(爆)。  

(ヒットはないけど因縁はまだ続く)

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2007/11/07
シモショーとの因縁 2 「ひとり言・・?(65534)」 [ 1年以上前をふりかえっての日記 ]
 実は下商とは校門の寸前まで通学路が同じなので、部活帰りに寄る駄菓子屋が共通だったりもする。
秋の大会で普通に負けた後、駄菓子屋前で会った野球部員同士、少し話をしていた。
たいていは中学の軟式野球部時代の知り合い同士(元チームメイト)が多い。私は陸上部だけど…。

 で、話の中で、うちの血の気の多いのが、「いつかシモショー倒すけーの!(いつか下商に勝つからな、覚えてろよ)」と捨てぜりふを言った。

 普通に苦笑いしたり、「はいはい」とか言えばまだ良かったのだが、その中の一人が 「お前ら、寝言は寝て言えや」と言って、一同は水戸黄門のように笑って去っていった。

 その話は、翌日にはN高の部員全員に伝わり、目の色が変わった。最初は目が血走っただけだったが、そのうちその気持ちは練習に向けられ、以前は「甲子園出場」とか言いながらもそれは半分冗談のような夢だったのだが、「打倒下商」というのが本気の目の前の目標になったのだ。

 「お前ら、寝言は寝て言えや」のおかげ(せい?)で、ダレがちな冬場の練習も気合いが入り、特にウェートトレーニングによる筋力アップはみんなその効果がすさまじかった。

 ひとりでウェートトレーニングのベンチプレスをしていて、台に置く前に力尽き、胸の上に80kgとかのバーベルを置いて動けないまま「誰かーーー」と助けを呼ぶ叫び声も何回か聞いた。(ちなみに助けもひとりでは持ち上げられないのでさらに人を呼びに行くためそのまましばらく耐えることとなる)

 副主将のP君は持ち前の研究熱心さで、広島カープのストレッチ体操などを仕入れてきて全員に浸透させた。当時まだ「ストレッチ」の存在を一般人は誰も知らない中、練習試合などの遠征先でそれをやる私たちは「ハッタリ」としてはなかなかであった。でも本当にケガが少なくなったような気もした。

 そして迎えた春休み。練習試合のうちの一つに「下関商」の名があった。なんでも向こうの部長(先生)がうちの学校の生徒のお父さんだったこともあり(こちらの息子もまた友人だが、それまでそうとは知らなかった)、その縁でうちの監督(翁)がPTAの飲み会の席で約束した試合だったらしい(笑)。

 しかし、ついに来たのだ。

 初回、下商のマウンドには何番手かもわからない投手がいた。それはそうだ、県外の名門との試合ならいざしらず、うち相手には「実力を試してやろう」という層の厚い控え選手が続々と出てきている。

 しかし、1軍じゃないチームに負けるようなチームではもうないのだ!

 初回からいきなり得点を奪い、3回くらいにはすでに7点リード。あわてた下商ベンチは5回くらいからレギュラー選手が次々と代打で出始めた。

 『メンバー総取っ替え』である。昔の名作マンガ「キャプテン」の墨谷二中 対 青葉中 みたいな話である。

 しかし、さらに打ててしまい、7回くらいには10点以上とってしまった。

 こうなると、とうとうエースのM浦投手も出てきた。

 向こうは、たとえ練習試合とはいえ「N高に負けては恥」と考えているらしく、負けるわけにはいかないようだ。目の色を変えて反撃に転じようとするが、うちのエースは左の軟投派なので、焦っていると余計打てない。

 ここで一番活躍したのは主審である。「下商が負けては県の健全な野球の発展のためにならない」とでも思ったのか、8回くらいからうちのエースへの判定だけ厳しくなっていった。ど真ん中のカーブに「ボール」と言った時には見学者からもどよめきが起きた。それでも空振りはストライクだし、打ち損じればアウトになるので点を取られながらも回は進む。うちのエースは頭に来たのか、しまいには「ハイ」とか「ホイ」とか言いながらど真ん中にゆるいストレートを投げていた(笑)。

 最終的な得点は忘れたが、10点以上とっていたそのリードを守りきり、10対8とかで勝ったのだ。これで1勝1敗。ただし、これは本当の勝利ではないのはみんなわかっている。


 そして、その一ヶ月後、春の大会の2回戦、公式戦で、本当の対戦がやってきた。

 今度は向こうもなめては来ない。

 緊迫した重苦しいムードの中、雨中の試合は淡々と進み、終わった時には、5対4で勝っていた! 

 翌日の地元新聞は、『古豪下商、雨中に散る』である。勝った方の校名書いてよ(笑)。


 その後、3回戦も辛勝した私たちの20年ぶりのベスト8進出は、小さいながらも記事となり、下関商の監督はなんと一度解任された…。(続く)

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2008/06/29
KIHACHI 1 「自分らしい生き方・お仕事(156578)」 [ 最近のことの日記 ]
 「他人の子でも叱れる大人が減った」と言われて久しい。

 私の小学校からの友人P(仮名)の父、喜八(仮名)は、平気で叱るし、それがまた怖かった。

 中小企業の社長として、一本筋の通った紳士。別に私たちを怒鳴ったり、どついたりもしないのだが、その風格と諭すような口調で叱られると、なぜか「きをつけ!」の直立不動の姿勢で聞いてしまうのだ。もちろん怒鳴られた人もいるようだったが…。

 高校時代、毎朝、Pの家に誘いに行った。ヤツはこれまた毎日出遅れていて、私は10分間くらい玄関で待つ。その間、おばあちゃんとかお母さんが交代でやってきて、「本当にいつもすみませんねえ」なんて言いながら世間話をする。

 今思い出しても、のんびりとしたさわやかな朝だった。そこから40分間くらい歩かないと高校に着かないし、着いたらわからない高度な授業を何時間も受けて(笑)、放課後は野球の練習…今思えば結構ハードな一日なのだが、その中で、「朝の待たされる10分間」は結構好きな時間だった。玄関までの庭にはすでに水が打ってあって、涼しかったり、小鳥の鳴き声を聞いたり。

 そんな朝のくつろいだ空気が、ピシッと引き裂かれることがあった。そう、喜八(仮名)が事務所に直で行かずに(家とつながっているので日頃は玄関を通らない)、営業?に出るのに玄関を通ることがたまにあるのだ。

 私 「おっおっっおっうう、おはようございます。」(姿勢は「気をつけ」)

 喜 「おはよう、わらG君」(低い声)

 しばらく沈黙の時間とともに私の服装を見る。

 喜 「わらG君」

 私 「はい…」

 喜 「革靴は、自分で稼ぐようになってから履きなさい」

 私 「はい、すみませんでした」

 喜 「いってきます」

 私 「いってらっしゃい(ませ?)」

 こうした日が2か月に1度くらいだったろうか、時々あるのだ。

 「先公なんて関係ないぜ!?」というあの高校時代になぜかPの父にはみんな頭が上がらないというか、とりあえず謝ってしまったり(笑)するのだ。

 だいたいが、なぜ革靴がいつも注意されるのかがわからなかった。アタマのそりこみ、長ランの内側には竜虎とかの刺繍、ボンタン、ほぼ中身のないつぶれたカバン…これが下関の標準高校生スタイルだったので、突っ込みどころはもっと満載のはずなのだが…。

 ちなみに革靴は先がとんがっていて、かかとが高く金具が着いている昔のアレ。もしかして全国標準ではないのか?

 とにかく、息子Pは何かと厳しくしつけられ、でもそれでめげるようなヤツではなく、むしろそう言われると意地でもとんがった革靴を履こうとして、朝、野球のスパイクケースに革靴を入れて家を出て、途中で履き替えて、草むらに運動靴を投げ込み……帰りにそれを拾ってまた履き替える…という涙ぐましい努力をしていた。

 それなのに、ある時、昼休みに郵便局に行ったP(たぶん学校抜け出しだな)、すばらしいタイミングで、たまたま用事で寄った父に遭遇してしまった!

 一緒にいた友人の話によると、しばらく沈黙があった後、「何でお前はここに革靴でいるんだ?」と問われたPが「別にええやないか!」とやけくそでいきがった瞬間に、郵便局内で顔面パンチ炸裂(伝聞なので定かではない)だったそうだ。学校に戻ってきたPの顔が腫れていたことから、都市伝説のように「喜八の恐怖」が語られ始めたのであった。

 それがあってか、ご近所の私に限らず、他の友人たちも学校行事などで会うたびに妙に緊張していた。この街の人々は「ガラの悪いおっさん」とかには慣れていてめっぽう強いのだが、「きびしい紳士」には弱い傾向もあるので、私たち一般ヤンキー高校生もそうだったかもしれない。

 そういえば、高校3年生で野球部引退後に、アイパー(ヤンキーのパーマみたいなもの)をかけたH君、体育祭準備で校内の電柱に登って作業をしていたのだが、そこを喜八氏が通りかかった。

喜 「やあ、H君、元気かね」

H 「あっ、ぅあうぅ、こんにちは。…いや、これは違うんです。アイパーって言って、コテで当てただけなんで、パーマとかと違うんです。」

喜 「???」

 まだ何も言っていないのに、大の高校生が、先生にもしない言い訳を電柱の上から必死でし始めるのであった(笑)。

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2008/06/29
KIHACHI 2 「自分らしい生き方・お仕事(156578)」 [ 最近のことの日記 ]
 そこから数年が流れた。P(仮名)も含めて私たちが20歳の頃のお正月、友人たちで集まろうということになった。飲んだり、麻雀をする予定で街中に集合しようとしていたら、喜八(仮名)が「店でやるくらいならうちでやれ。おせちの残りもあるから何人でも来い!」と言ったとかで、急遽、P宅に集合となった。

 とはいえ、各自がそれなりにびびっている私たちは気が気ではない。親から言われて安い手みやげなど持っておそるおそる訪問した。

 すると喜八氏は、超ウェルカム状態の笑顔! 手みやげをお渡しすると、もう、本当に喜んでくれて「わらG君は立派になった」とその後も何度もほめてくれた。東京みやげではなくて、そこのスーパーで買ってきたんだけど…。

 奥のすばらしい全自動麻雀卓のある部屋(接待部屋)に通していただき、休んでいる間はお酒もあればおせちもごちそうに…おせちの残りなんて言っていたけど、我が家の新品おせちよりもリッチだ(笑)。先発隊がもてなしをうけたことに安心してか、その後も続々と同期の連中が集まり大宴会となっているのだが、食べ物も飲み物も尽きない。今思えば、私たちが集まって楽しめるように家族の誰かが買い足していったに違いない。

 別の部屋でくつろぐ喜八氏に、そのうち調子に乗った友人(誰だったか記憶が不明)が「お父さん、僕、今日革靴で来たんですけど良かったでしょうか?」と聞いた。

 彼の答えは 「何をわしに聞くことがあるか。大人になって自分で稼ぐようになったら、自分の責任で好きなことをしなさい。大学生はまだ親の仕送りのお世話になっとるやろうけど、アルバイトとかしてお金の価値がわかったやろうから、その上でどれだけのお金を何にかけるかは自分でよく考えなさい。」(もともと伝聞な上にかなり忘れての意訳ですが)

 その話を聞いた時、成人式よりも何よりも、自分たちが「大人になったんだなー」と感じた。

 若者の服装が気に入らないのではなく、革靴は「自分の稼ぎで買うべき、大人の象徴」だったんだなあと今はわかる。

 
 あれから20年以上が経った。

 今の高校生が、ハルタの革靴をかかとつぶして履いているのなんか見たら悲しかっただろうなあ。

 実の父とはタイプがまったく違うけど、でも父のような存在だった。厳しさと優しさを教えてくれた。

 大人っていうのはかっこいいなあと思わせてくれた。

 まだ一般家庭にはビデオデッキなんてない時代に、ビデオカメラで野球部の最後の公式戦を記録してくれた。

 何でその後、帰省した時にこっちから訪ねていって会わなかったのだろう…。

 昨日、お亡くなりになった。 ご冥福をお祈りします。

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